犬鳴峠を夜中に走るトラックの運転手が、トンネルの真ん中に立つ女を見た話
Sさん(仮名・48歳男性・長距離トラックの運転手)から、メールで届いた話。同じ道を何年も走っている人の体験だという。
自分は、九州を中心に、夜の高速や下道を走る仕事をしています。もう、20年以上。
夜の運転は、慣れているつもりでした。20年で、変な道も、ずいぶん通ってきた。
福岡の犬鳴のあたりも、ルートに入っています。今は新しいトンネルが通っていて、夜でも、ふつうに抜けられる。
あそこが、いわゆる出る場所だというのは、もちろん知っていました。だから、止まらない。トイレも、手前のコンビニで済ませる。
2年前の、秋の夜中でした。
霧が、濃かった。トンネルに入る手前から、ライトが白く滲むくらいの霧。
対向車も、後続も、いません。あんな時間に、あの道を走るのは、自分くらいです。
トンネルに入って、半分くらい来たときです。
ライトの先に、人が立っていました。
女の人。トンネルの真ん中、車が走る車道のところに、こっちに背を向けて、壁のほうを向いて立っている。
歩道じゃありません。ど真ん中です。
白い、薄手の服でした。髪が、背中の真ん中あたりまで。
風もないのに、その裾だけが、ゆっくり揺れていた。
自分は、ブレーキを踏みました。クラクションも、鳴らした。
でも、女は動かない。ぶつかる、と思って、とっさにハンドルを切りました。
通り過ぎるとき、横目で見たら、もう誰もいない。
ミラーを見ても、後ろの車道には、何もありませんでした。霧だけ。
心臓がばくばくしたまま、トンネルを抜けました。
そこからが、長かった。
ラジオが、ずっとザーザー言っている。ときどき、女の声みたいなのが、混じるんです。チューニングを変えても、同じ。
いちど、その声が言葉になりかけました。もう少しで、何を言っているか分かりそうで。自分は、とっさに音量をゼロにした。聞いてしまったら、いけない気がして。
自分はもう、ラジオを消して、ひたすら前だけ見て走りました。
次の朝、サービスエリアで車を降りて、気づきました。
フロントガラスの、内側です。手の跡が、ついていた。
小さい、子どもみたいな手の跡が、内側から、いくつも。
数えたら、両手の指では足りないくらい、ありました。
乗っているのは、自分だけ。内側なんて、拭けばすぐ消えるのに、その日はなぜか、消す気になれませんでした。
20年、いろんな夜を走ってきました。鹿の飛び出しも、霧で何も見えない夜も、慣れている。でも、あの手形だけは、いまだに、説明がつかない。
それから、犬鳴のルートは、できるだけ避けています。
どうしても通るときは、ラジオは、最初から消しておく。それだけは、決めています。