八王子城跡を夕暮れに下りていたら、谷の底から大勢の声と「おいで」が聞こえた話
Hさん(仮名・45歳女性・会社員)から、サイトのフォーム経由で届いた話。ひとりで山を歩くのが趣味だという。
私は、低い山を歩くのが好きで、休みの日に、よくひとりで登ります。
人の多い山より、誰もいない山のほうが、性に合っているんです。
その日に行ったのは、東京の八王子城跡。歴史のある、お城の跡です。
軽い気持ちで、午後から登り始めました。コースは、思っていたより、ずっと長かった。
本丸跡まで行って、写真を撮って。引き返すころには、もう夕方になっていました。
思ったより、ゆっくりしすぎました。山は、日が暮れるのが、街より早い。
日が、山の向こうに沈みかけて。木のあいだが、急に暗くなってくる。
少し、急ごうと思いました。
誰もいない山で暗くなるのは、さすがに、心細い。
下りの途中、谷のほうから、音が聞こえてきたんです。
最初は、沢の水の音かと思いました。ざわざわ、という、低い音。
でも、よく聞くと、水じゃない。大勢の人が、いちどに、小さな声で話しているような音でした。
話し声というより、たくさんの人の、ためいきが重なったような音。
何を言っているのかは、分からない。ただ、たくさんの声が、谷の下のほうから、ずっと聞こえている。
こんな時間に、団体さんでもいるのかな。そう思おうとしました。
そのとき、その大勢の声の中から、ひとつだけ、はっきり聞こえたんです。
女の人の声でした。おいで、と。
すぐ耳元で言われたみたいに、はっきりと。声は、谷の下から聞こえているはずなのに。
私は、下を見ないようにして、足を速めました。
橋のところまで来ると、今度は、後ろから足音がしました。
一定の間隔で、私のすぐ後ろを、ついてくる。
私の足音より、少し重い。土を、ひきずるような音でした。
振り返りませんでした。麓の鳥居まで、止まらずに歩いた。
鳥居をくぐったところで、足音は、ふっと消えました。
そこで初めて、振り返りました。山道には、誰もいない。当たり前みたいに、静かでした。
声も、もう聞こえない。山は、ただ暗くて、静かでした。
あのあたりは、昔から色々言われている場所らしい、とあとで知りました。詳しいことは、調べていません。
私は、夕方の山には、もう登らないことにしています。
昼の、明るいうちだけ。それでも、八王子城跡には、それきり行っていません。